ネクタイも結べない(けど社会人にはなれるらしい)

ギリギリ社会人になれた人の日常

金曜日の憂鬱(小学生編)

中学3年生まで「天才てれびくん」を見ていた

 

平日18:20-18:55にテレビ戦士たちが活躍する姿にいつもこころ踊らせて見ていた

 

(2020年度の「天才てれびくんhello」のメインテーマ『ハローハロー』が映像も含めてかなり神曲なので、最近の天テレを見ていない人はぜひ見てみてください。明るい曲調なのに、聞くたびにちょっと「宝石の国」のような痛みを感じる不思議な楽曲です、)

 

恐らく多くの人が天テレをみていたことがあると思うのだが

細かなことは記憶の彼方にあると思うので思い出していくと

通常、月-水は通常回を放送、番組内ドラマやゲームコーナー、スタジオトークなどを行う。

天テレの歌こと「MTK」もこの中で主に流される。

木曜日は「木生」(もくなま)と称され、

NHKスタジオ内からテレビ戦士が生放送で番組を行う。僕らが見ていた時代はアバターなどを使って番組コーナーに参加できたり、

電話で話す、自宅突撃とか視聴者参加を強く意識した内容になっていた

 

金曜日は兄弟番組「ビットワールド(旧名称:天才ビットくん)」を放送。

(我々世代だとくりぃむしちゅーの上田さんやいとうせいこうさんが謎のコスプレして出演していた)

サイバー世界を舞台に「IT」や「インターネット」に寄った内容でコーナー展開をしていた

(薄い記憶の中では、たまーにドラマパートもあった気がする)

 

そして、偏見でしかないのだが

友だちと遊んで帰ってきてテレビをつける

おじゃる丸」→「忍たま乱太郎」ときて

ビットワールドが始まった時、大体の小学生は

「うわ、今日金曜かよ!天テレじゃないじゃん、、、」となっていた

 

なんというか、ビットワールドは刺さる人には刺さる系の内容で、私には全く刺さっていなかった

 

 

そして、つい最近小学生と話していてこの

「金曜、不意打ちのビットワールド問題」は現代リアルタイム小学生にも当てはまることがわかった!

 

約20年の時を超えて、全く同じ感情になっているのかと感動してしまった。

 

ちなみに、「みんなのうた、たまに謎の怖い歌やってる」も伝わったし

忍たま乱太郎、上級生メインの回ややつまらない」も共感を得れた

 

NHKすごい!Eテレ優秀すぎる!!

(僕ら時代は「NHK教育」だったけどね)

 

と、幼き頃の記憶と今を生きる子の感覚がシンクロしたことが嬉しかった

 

ちなみに私は19:00くらいにやってた海外子供向けドラマの吹き替えも結構好きでした

(特になんといってもフルハウス

自分語りが止まらない

思いつきでブログを始めてまだ数本しか記事を上げてないが、見てみるとどれも「自分ってこういうやつなんですよぉ(照)笑」

みたいな変なあざとさがあって恥ずかしい。  

 

興味のある事象についてより深く考えるとか

好きなものの紹介とかではなく

 

ほとんど全てのトークテーマが「自分」

であることの気恥ずかしさを今更ながら感じている

 

 

原因は2つあると思う

 

【原因1】インプットの少なさ

最近、休日もなんとなーく仕事をして

YouTubeを流し見して寝て終わる

読書や映画鑑賞もあまりしていないし

美術館や個展にもいかない(そもそも行かない)

誰かと遊んだり何かイベント的なことを滅多にしない結果話す内容が己から半径50cm以内の話題になっている

 

以前から無趣味ではあったが、

人と話すことは結構好きだったはずが

バイト終わりに誰かとなんとなーくおしゃべりするみたいなこともなくなり他の人からの情報もなかなか仕入れられなくなった中で引き出しが自分語りばかりになってた

 

【原因2】

そもそも自分が好き

自己肯定感が高い。根本には、どんなことがあってもまぁどうにかはなるなという甘えた考えがあるのだが

「こんな俺どうでしょう」と言って照れてる自分も含めて好きみたいなところまである

そしてそれを客観視できてる自分も愛おしい

メタメタメタメタに好きなのだ

 

 

 

 

さて、自分語りばかりになっていることにやや危機感を覚えたのは

最近よく聞き流して聞いているYouTube

『ゆる言語学ラジオ』

の雑談会にて、

「友人を情報量で見てしまう」という話があった

 

簡単に言うと、サンプル数1でしかない友人が考えた話や体験談よりも

アカデミックな話をしたいし、そういう興味をそそる話題をする人と話したいということだった

 

https://m.youtube.com/watch?v=JDyFEb6NOVI&t=126s

 

あぁ、自分はいつもサンプル数1の話をこねくり回してしているなぁと強く反省した

 

さも面白いでしょと思いながら話していたが全く刺さっていない人がこれまでにもいたのかもしれない。いやいたのだろうと思ったわけである

 

 

ということで、今後は自分語りが5:その他の話5くらいで行こうという、決意を軽くしておく

 

 

再提出「大人になるってなんだろう?」

中学3年生の3学期まで、授業中に居眠りをすることなく非常に真面目に受けていた。

普段真面目に授業を受けていたからこそ、めずらしく適当にやって少しだけ後悔している授業がある。

 

中2のある日。現代文か何かの授業で担当者が急病で来ず、

突然古文の担当者が一回だけ特別授業という名の1回分の授業をどうにか保たせるという日があった

 

ひらがなの「し」を僅かに先が傾いているだけのほぼ直線として板書するそのおじいちゃん先生は、その45分を(中学の1コマは、50分間だった気もする)自習ではなく特別課題の「大人になるとはどういうことか?」という作文を400字原稿2枚以上で書く課題にあてた

 

課題を書き上げた人から自由時間になるシステムで、その時は面倒だなぁと思った

 

後日、全員の原稿に丁寧に赤文字で結構な量の感想を書いて返却してくれたことをかんがえるとかなり手間がかかっている上に

中学2年生に「大人になる」ことを今一度突きつけた先生は非常にいい先生だったなと思う。

 

当時、その優しさに気づかなかった自分は

姉の小学校の卒業式かなにかで姉の担任が言っていた「人は親が死んだ時はじめて真の大人になれる」みたいな話をそのまんま頂戴して書いた記憶がある

(中学生になったら少しずつ「自律」しなさいという意図だったのだろう)

 

ひとさまの言葉を意図もわからず頂戴した文章は、明らかに見当違いなことが書かれていたと思うしスピード重視で書いたその粗雑な提出物に後日赤字で「本当にあなたは保護者が亡くなるまで大人になれないのでしょうか?」と書かれて戻ってきて心が痛んだのを鮮明に覚えている

 

ということで、約10年遅れの再提出をしたいです。「大人になるってなんだろう?」

 

名言や格言などを連発することに少々の気恥ずかしさというかダサさを感じて抵抗があるが

何年か前に知って好きな諺がある

 

謙虚であれ、あなたは土から出来ているのだから。
気高くあれ、あなたは星から出来ているのだから。

セルビアの諺らしいのだが、ビッグバン宇宙論の元素合成に通ずるものがあると何年か前にTwitterややバズりをしていた。

 

恐らく、周囲の人への心遣いを忘れずに慎ましやかに生きながらも自分自身を大切にしなさい

的な意味合いだと思うのだけど、ここに大人になることの真髄があるように感じている

 

 

小学6年生のころ、身長160cm以上ありハーフだったから将来絶対モデルになれるわと思っていた。勉強せずに成績も良かったし、運動もできたし、当時感じていた「無敵感」はいつのまにか消えている

 

とは言っても、

高校生の時の文化祭で優勝したときも

大学生でバイトで評価してもらえたときも

自分の「"すごさ"」みたいなものに酔ってたし、主人公感すごいなと一瞬でも思っていた

 

一方で、浪人時代や社会人1年目当初の

自分の代わりなんて無限にいるなと思う

世の中に置いていかれるような「虚脱感」を強く感じる時期もあって、自分なんて必要ないなと強く感じていた

 

「自己肯定感」にちょっと似てるけど

なんとなく違う

この

「世界の主人公は自分ではないけど、人生の主人公は自分しかいない」

という矛盾した状態を受け入れられることが大人なんじゃないかなと今は思っている

 

幼きころの、自分でなんでもできると思ってた感じや厨二病の誰も気がついていないけど自分は凄まじい能力を隠し持っているみたいな

世界の主人公だと信じてたり諦められていない気持ちも落ち着き

 

一方で、それでも自分の日々の生活や今後の生きる道を作り出すのは自分しかいないという当たり前の事実に気づいて動ける

 

こんな状態が理想的で、大人だなぁと思う。

 

人類76億分の1でしかない自分とそれでもオリジナルはたった1つしかない自分

このやや複雑な状況を受け入れて生きていかなくちゃいけないなんて大変だなぁ

 

 

大人であることだけが正解ではないが

大人である状態に落ち着けることが理想だなぁと思う

 

なんか、あんまり理論的ではなく

論を積み重ねた結果ではないけど

今何となく大人になるってこういうことなのかなぁと感じている

 

さて、自分はどれくらい大人になったんだろう

まだ、主人公と思っていたり

一方で気落ちする時も多くて忙しない気がする

 

「気高く、謙虚」そんな人に少しでも近づけるように、、、

 

友愛の証

バングラデシュにいると、日本と異なることが山のようにある。

ごはんを手で食べるとか(実際には富裕層のほとんどはスプーンやフォークを使っていたし、客人には出してくれるけど)、
時間にルーズとか、服装のルールが場所によって全然違うとか、スコールがすごいとか、、、

文化や思想、気象などとにかく様々なことに違いに驚かされるがその大半にすぐに慣れた。
それは、外国人であるから必ずしも徹底的に守らなくてもいいとかそういった部分もあるが、何やりも
「ここはそういうところだ」というバングラデシュモードがONになるともうしょうがないよなぁとなる。

だから、日本では虫とは極力距離をとって暮らしていきたいと思うけど
バングラデシュで寝床に虫が出ても気にせず寝れる
(もちろん田舎の話だし昔の話だからどこもかしこも虫だらけとかではない)

[hr]そんな感じで多くのことは、この特殊
モードで逆に楽しいくらいの感覚で過ごせるのだけど一つなかなか慣れないことがある

僕が中学生の頃バングラデシュにいたある日、父の親友夫婦とその子ども2人家族で外食に行った

会がお開きになり、それぞれが駐車場の車へ戻っていった際にふと後ろを振り返ると

父親と親友が手を繋いで歩いていた

 

その時、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気まずさを覚えた

 

この謎はすぐに解ける

この帰省の間に、お手伝いさんたちと遊びに行った

普段は厳格(で、雇い主である)父がいるため

かなり落ち着いているお手伝いさんたちも

僕のみの時はめちゃくちゃテンション高く接していた

 

その際、仕切りに僕と手を繋ぎたがるのだ

いずれも男性のお手伝いさんである

 

ここから察するに

イスラム圏の風習がインド等の南アジアの風習かわからないが

「仲がいいことの証として他意なく手を繋ぐ」という文化なのだとわかった

 

そこに気がつけば、意外に町の至る所で手を繋いでいる人がいるなぁと思うようになった

 

今もバングラデシュに帰ると、ナチュラルに手を繋ぐことになる。

帰省直後だとまだドギマギするし慣れないなぁとおもうのだけど、

バングラデシュの習慣の中でもかなり好きなものだ

 

 

 

自分史上最も好きな本として多くの人に布教しているSF『新世界より』(貴志祐介)では、

人間同士が争い攻撃を与えることを防止するために同性間のスキンシップを推奨する教育を行うというシーンがある

 

ガッキーと星野源の『逃げ恥』でも

心の癒しのために「火曜日はハグの日」として

意識的にハグをするというルールを設けていた

 

とにかく、人間にとって他者との友愛のスキンシップって精神にめちゃくちゃ大事なんだと思う

 

さて一方で、ここ日本では「友愛を表現するスキンシップ」というものがあんまりない気がする

 

子ども同士が手を繋いだりハグしあったりとかはあるけど、仲良い同士がなにかスキンシップを取るということはあまりないように思う

 

距離が縮まると敬語ではなくなったり、仲間内だけで伝わる言葉ができるとか

お決まりのくだりを作るとか

あとは、あえて(怒らないことを分かって)相手を蔑む冗談を言うとか

 

お互いの友愛・仲の良さをこんな言葉の細かな使い方・ニュアンスで確認しあっている気がする

 

風情あるような回りくどいような

(さすが、千年前に31文字の和歌を送り合うことで愛を確かめ合った人たちの子孫だな)

 

 

心のケアには、やはりスキンシップの方が直接的でいいのではないか?と思わなくもない

 

友愛の証に手を繋ぐ

そんな文化が日本に浸透したらもう少しだけみんなの笑顔が増えるのかもしれないな

 

 

と思ったり

 

 

あるあるが面白い。

TikTokをザッピングしていると、「高校生あるある」「教師あるある」「お母さんあるある」ととにかくあるある系動画が大量にリコメンドされる

 

ふふっとなる具合がちょうどよくて、見ているうちにやめ時をなくす

 

「一軍男子の椅子の座り方」「顧問が来た時の部活の雰囲気」「おかあさんの謎の注意の仕方」とか細かい仕草、喋り方が猛烈に刺さってあ〜めっちゃわかるなと笑ってしまう

 

習ったことはないが、お笑いの教科書の1ページ目に笑いの基本はギャップだとかいてあるらしい。

 

意外性、予想していたものと違うことが起きてその差に面白いと感じるということらしいのだが

 

「あるある」を面白いって感じることはこの理論では全く説明できない。

昔経験したことを抽象化して提示されたとき面白いと思うのだけど

それはむしろ予想通り・想定通りであればあるほどよいとされるのだから不思議だ

 

 

昔、柳原可奈子がめちゃくちゃ好きでレッドシアターとかでよく見ていたが

あのネタはあるあるとして世の中にいる人(ギャル、キャリアウーマン、デザイナーとか)をリアルに演じつつも喋っている内容自体にオチがついてて

意外性があったから多分教科書通りの笑いなんだと思うが

 

最近のTikTokの動画は約15秒の中にオチとかはなくてただただ、リアルなあるあるが凝縮されているだけでオチとかはない。のに面白いと感じる

 

これと似た笑いの種類かなと思うものに「モノマネ」があって

これも本物に近ければ近いほど面白いと感じる

 

コロッケみたいに、本人の癖とかを過剰に強調したり味付け濃くしているのは

また違ったひょうきんとか冷やかし的な笑いなんだろうけど

 

ただただ有名人にめちゃくちゃ似ていることを面白いとなる状態って結構不思議で

なんで自分はわらっているのか客観的に考えるとピンと来ていない。

 

既視感とか共感とかそういったものを面白いと感じるのはなんでなんだろう。

知っているものを心理的に受け入れやすく気分がよくなるのは間違い無いのだけど、

それが穏やかな気持ちどころじゃなく「おもしろい」という結構ビビッドな気持ちにまで達することに違和感がある

 

と文章を書いていて思ったけどあるあるやモノマネの面白さの根元にあるのは「違和感」なのかもしれない

 

ただの日常をあるあるとして語っても面白く無いし、

よくいる人をモノマネしても笑わない

 

普段の生活でなんとなく感じている違和感を再現し提示されるから面白いのかもしれない

 

もしかしたら、多くの人はこんな当たり前のこととっくに気が付いていたのかもしれないけど

ちょっとスッキリした!

 

ちょっと大人になれた気がする

献血は世界を救う

自己肯定感が下がっているそこのあなた!

オススメの遊び場があるんですが、、、

 

ということで、『献血』がめっちゃ楽しいよ!という話をします。

 

東京都内に10箇所以上もある献血ルーム

 

思っている以上に広くて小洒落た感じになっているところが多い!

(コロナ前は)漫画も読めてお菓子も食べられて充電もできる!そんなハッピースポットだったんだが、献血ルームの最大の魅力は「自己肯定感がめちゃくちゃ上がる!!!」こと

 

これに尽きる。なので、ちょっと気分が落ち込んでいるときは献血しにいくと非常によい

 

献血の自己肯定感をあげるポイントは2つ

① 世の中に貢献している自分を感じられる

②なんか知らないけど褒めてくれる

 

この2つのおかげで帰る頃には心がホッとゆるまっていること間違いなし

 

 

まず、献血というどっからどうみても世の中にいいことをしているので

生きている価値がないかもと思える自分でも存在している意味がちょっと見出せる。

この血200cc(もしくは400ccか成分献血)で誰かの命を救えるかもしれない

と思うとちょっと心が救われる

(そこまで落ち込んで切ることはそうそうないけど)

 

そしてそして、献血ルームにいる人は異常なくらい優しい。

受付スタッフも問診をしてくれるお医者さんも検査採血をしてくれるお医者さん(看護師かも)も献血をしてくれる人もニコニコ愛想よくしてくれる

 

ホテル的な丁寧な対応というより、田舎のおばちゃん的な居心地の良さがある

 

そして、採血完了後毎回謎に褒めてくれるのだ!!

「血小板の値が非常にいいですね」

「血液の濃さがちょうどいいです」

という普段されない角度の褒められ方で(喜び方は毎度よくわからないけど)すくなくとも嬉しい。

 

大人になるとなかなか褒めて!と言わないと褒められない。普段注意や指摘ばかりされる世の中でこんなに明確に褒めてくれる場所はなかなかないはず!

 

ということで落ち込んでいるそこのあなた!ぜひあなたの血液を誰かのために献血をしに行こう!

 

 

 

とよくいろんな人に喧伝するのだがあまり広まらない

たぶん注射のハードルがめっちゃ高いのだと思う。

 

自分は以前(高校生の頃だが)お医者さんに痛覚が若干鈍いタイプと言われたので

平均より注射に対しての嫌度が低いのだろうなぁと推察する

 

その結果、献血の楽しい部分のみ感じられて非常にハッピーなのかも

 

あとは、普段からお酒飲まないから献血によるデメリットが低いのかも、、

 

とはいっても、献血、本当に心にもいいので!ぜひ一度言ってみて!

 

(現在は予約していけばほぼ待たずにいけるストレスフリーなシステムになってます!)

 

献血は誰かの命とあなたのハートを救う!、、、かも

チョコレートの圧がすごい

 チョコレート。

 

世間からの信頼厚すぎないですか?

 

コンビニでとりあえずお菓子3種類買ってきてと言われた時

旅行先で礼儀的にお土産買わないとなと迷った時

 

選ばれるのはチョコレートじゃないですか?

最大多数の欲望をちょうどよく満たしてくれる食べ物として重宝されすぎじゃないですか?

 

そのあおりを我ら圧倒的少数派こと「チョコレート苦手勢」がくっている

 

と思う

 

 

 

全く同じ現象が「大人が日中飲むもの = コーヒー」で起きている

どちらもそこそこ味の癖強いのに人気ありすぎて、さも好きで当たり前みたいな風潮になっていてビビる

 

コンビニのお菓子コーナーの6割チョコレートなんじゃないかと思うくらい

 

とにかく、茶色黒い苦いもの全般(つまり、チョコレート・コーヒー・ココアなど)がすべて苦手な僕にとって好意でとりあえず渡されたものが嫌い率が高すぎる

 

お土産の定番・飲み物の定番にこの子たちがなっていることに未だ僕は納得していないことを強く主張しておく。

 

とりあえず、チョコレート嫌い勢の皆さんには所属しているコミュニティーで早めに

お土産はチョコ以外がいいことを早めに(とくに旅行が多いGWや夏休み前に)主張しておいたほうがいい。

なにも対策してないと全然お土産の恩恵を受けていないのに自分だけお土産をみんなに渡さなくちゃいけなくなっちゃうはず!!!

 

あと、

バレンタインはチョコすぎると飽きるから、チョコじゃない方がいいよという雰囲気を2月が近くまえにしておくことも忘れずに

 

中高6年間で根回しに根回しを重ね(シンプルに友だちみんながチョコ菓子を作るのに飽きた説もあるけど)最終的にチョコ含有率を2割にまで落とせたと思う

 

ということで、バレンタインはパイナップルを渡すのがおすすめです!